未完成だからこそ美しい。
いや完成させろよ!!なんて突っ込みを思わず入れてしまいそうになる言葉なのだが、そんな歯痒い状況を好む人間も少なくはない。そう、我々人間は常に考え悩み続けていたいのだ。
そのような人達の大半は、不足している情報に対して自らの知的好奇心を満たすべく、想像に想像を重ね不足箇所を補完していると考えられるが、その“想像力”という部分が少しばかり問題で、ついつい自分に都合の良い想像をしてしまう傾向にもある。
例えば出会い系。
年齢や血液型、趣味や出身地などのプロフィール情報を判断基準に、LINEやメールのやり取りする相手を選定するのが基本的な流れとなる探偵顔負けの推理の世界。
やがて2人の関係が発展し、そろそろ直接会おうかと思う頃には、顔も知らぬ相手のはずなのに、自分の中で既にビジュアルが出来上がってしまっていることが多い。
それはそれは自分好みの顔立ちに。いつの間にか私は探偵ではなくエスパーになってしまったのだろうか。
そんな期待を胸に、意中の女性と対面するのだが、やはり現実は厳しく、大半の場合、イメージと大きく乖離した生物が目の前に現れることが多い。
その時点で急騰していた出会うまでのテンションは、スプラッシュマウンテンのように急落していくのである。
全ての情報が手に入らないからこそ、自らの都合の良い想像で補完しまった故に起きた悲劇。だか、そんな経験を幾度となく味わっても、我々、人間は不完全な情報に何故だか魅力を感じてしまうのだ。
本日はそんな淡い思い出を蘇らせてくれる女性シンガー「Aimer」 について書かせていただこう。
顔出しNGだった理由はイメージ戦略のため?それとも実力だけで勝負をするため?元ミステリアスシンガーAimer
Aimer?エイメー?いやいや「エメ」が正解とのこと。いや読めねーよ、なんて迂闊に発言しようもんなら、音楽リスナーからオッサン呼ばわりされることは必至。
今思い返してみても、エメというアーティストはデビュー当時から謎だらけな存在だった。プロフィールの詳細も公開されていなければ、アーティストのヴィジュアルがお披露目されたのも、つい最近。自宅の住所が公開されていた昭和初期の芸能人と比較すると、圧倒的な秘密主義。情報化社会なんて時代に相反する、全盛期の大黒摩季のような販売戦略である。
そんな方針に対する強い意志が感じられるデビュー曲『六等星の夜』のライブ映像を見て頂きたい。
照明がぶっ壊れているの?なんて想像してしまうほど暗いステージ。隣の席に座っている女性のお尻を触ってもバレなそうなほどの真っ暗闇である。むしろ鍵盤を弾いてるオッサンの方が鮮明に写っている。何かしらの巨匠に違いない。とにかく、本当にここはライブ会場なのか?会員制の痴漢クラブではないのか?むしろ、コチラの動画すらプレイの一貫なのではないだろうか?なんて事を色々と妄想してしまうほどの真っ黒い絵面。
それもコレも、エメというシンガーの最大の売りである「歌唱力」と「声質」を際立たせるための演出だと思われるのだが、肝心の御尊顔を拝見することは難しめ。目で見るな耳で感じろ、そんな台詞を過去幾度なく漫画や映画で耳にしてきましたが、今がその時なのでしょうか。ギリ最前席の辺りの方々が見れると思われるが、きっと選ばれたファンや関係者なので余計な言及はしないはず。
Aimerというアーティストが確かな実力を持っているからこそ、ヴィジュアル先行による余計なイメージの定着を避ける形が取られているのだろうけど、ガードがあまりに硬すぎやしないか。
確かに彼女がどうしようもない“不細工”だった場合、絶対にネット界隈で「歌は上手いのに顔は残念な新人デビュー」などというコメントが溢れかえっていたはず。いやもう、溢れるなんてもんじゃない、鉄砲水になってAimerに向かって行ったはずだ。
そんなリスクを解消するために取られた手段が、映像のような“暗闇痴漢クラブ・・・”、いや“暗闇ライブ”なのでしょう。魅力的なハスキーな歌声と確かな歌唱力を持った金の卵を簡単に潰すわけにはいきませんもんね。
それにしても鉄壁なガードゆえ、妙にミステリアスなAimer嬢。
余計なイメージが定着してしまいそうな「ビジュアル」の公開は極力控え、リスナーの想像力を駆り立てる「エピソード」や「限定されたプロフィール」のみ発信されるという徹底的な守りの戦法は、最早フィクション作品の登場人物のようでもあった。
彼女の僅かに公開されているプロフの1つにこんな話があります。
15歳の頃、歌唱による酷使が原因で声帯を痛め、治療のために沈黙療法を選択したことで発声が出来ない期間を約半年間経験するが、そのおかげで歌手になりたいという夢が明確になり、回復後に喉を守るように工夫して歌うなかで現在の声質と歌唱法を確立する。このときの声帯の傷はデビュー後の現在も完全に治癒していないが、完治すると今の声は出せなくなるとの主治医の忠告もあり、声質を維持するために現在の状態を保っている
引用URL Aimer - Wikipedia
あーん。心配したくなるほどドラマティック。あの魅力的なハスキーな歌声は、声帯に対する負荷によるものだとか。さらに完治してしまうと同じ声質は出なくなるという・・・。なんともドラマのような展開。
「先生、私、完治はさせません」
『それだと喉に負担がかかりすぎる。いつか歌えなくなるぞ?』
「それでも大丈夫です。私、今の声で歌いたいんです!!」
なんて、やり取りがあったかは知らないけど、僕ら日本人って、こういった設定が大好きで仕方ないですよね。もういかにも悲劇のヒロインって感じでキュンキュンしちゃう。
だけど、逆を言えば「こんな設定」を付けておけば、悲劇のヒロイン感をリスナーに植え付けることが出来てしまうんですよね・・・。
想像を膨らませるシンガーAimer
若年層の女性から多くの支持を集めている歌手「西野カナ」。我々男性には中々理解することの出来ない女の子の気持ちを、160キロ超えの直球ストレートな歌詞で伝えてくれるメジャー級の強肩シンガーソングライターだ。
当然、そんな世界観を歌う彼女ですので、その歌声も歌詞同様、どこにでもいそうな「歌上手女子大生」といった感じのもの。
それゆえ、想像できるアーティストイメージも、また「どこにでも居そうな女子大生風」であり、現実のヴィジュアルもそれに一致している。しかしながら、そんな予想通りが必ずしも悪いという訳ではない。
何事もバランスが重要なのだ。
仮に西野カナの歌詞と歌声はそのままに、オタサーの姫風の女性が唄っていたら世間の人々はどう感じたのだろうか?
ヒエラルキーに敏感な女性リスナーの多くは、火曜サスペンス並みの殺意を抱くはずだし、そのヴィジュアルに共感することも出来なかったはず。女の子の理想の恋愛って考え方は共通しているのに「は?あの女、何?私達の事を理解してるつもりなの?オタサーの姫なのに?は?キッモ〜」なんて感じになっちゃうでしょ。
それ程までに、アーティストのイメージって想像通りでなければいけないんです。160キロの豪速球を投げるピッチャーと聞いたら、直ぐに屈強な外人ピッチャーが頭に浮かぶのと同じ理屈。
さてさて、それでは我らがAimer嬢は実際にイメージ通りのアーティストなのか?西野カナ同様に「恋愛」をテーマに歌っていると思われる『words』のミュージックビデオを確認してみよう。
あまりに前衛で芸術性の高い世界観のため、何が何だか分からない感じではあるが、深みあるAimerの歌声は「苦悩」や「後悔」がテーマとなっている阿部真央の書き下ろした繊細な歌詞を見事なまでに表現している。
しかし今作品でも、やはり顔出しはNGらしく、全くもって全貌が掴めないAimer。なんとももどかしい展開。だが、そんなもどかしさゆえに、公開されている情報から彼女のイメージをついつい想像してしまうリスナーも多いのではないだろうか?筆者もその1人である。
まず、先程も話をさせて頂いたように、アーティストとは自らの経験や価値観を作品に投影している。そういった傾向ゆえ、作風とアーティストヴィジュアルが一致することが多い。西野カナの詞の内容や歌声を聴けば、何となく「キラキラ女子」が思い浮かぶのと同じ感覚。
こういった感覚でAimerというシンガーのヴィジュアルを想像すると、まず「繊細」な印象が先行するのではないだろうか。
つぎに、多くのアーティストから楽曲提供されるAimer。当然、楽曲を提供する側も彼女の表現力や思想を汲んだ、彼女のイメージにぴったりな作品を提供するはずだ。
そんな楽曲から連想できる彼女の姿は、まさに「孤高」。高らかとそびえ立つ崖っぷちで、1人歌い続ける姿が簡単に想像できてしまう。
このようなシンガーの大半は、シンプルなステージングの舞台に白いワンピースと裸足というスタイルで現れるのだが、その実力は本物。彼女を引き立てる舞台演出も衣装も必要ないのだ。
そんな彼女の姿は見た有名評論家達は、口を揃え皆同じコメントをするのだろう。
「彼女は本物だ・・・」
さらに彼女の公開されている数少ないプロフィールもまた、彼女の「儚くも危険」な存在感を強調させている。
そんな彼女の姿は見た有名評論家達は、またまた口を揃え皆同じコメントをするのだろう。
「彼女は自らの歌手生命すら厭わないというのか・・・」
なんともドラマ仕立てな印象。それゆえAimerというシンガーのイメージもヒロインテイストになるのではないだろうか。時には「和製Bjork」なんて呼ばれる事もあるらしい。
身長は150センチ前半と小柄。黒髪のロングに色白の肌。決して健康そうとはいい難い風貌ならが、その目は強い意志に満ち溢れている。深みのあるハスキナー歌声に説得力のある歌唱力。命を燃やす鬼気迫るステージングなどなど、ここまでは完全に筆者の妄想のAimerなのだが、彼女の実態が掴めないからこそ想像は膨らんでいくのではないだろうか。かなり自分の都合の良い方向に・・・。
そんなリスナーの想像に依存させるのもAimerの販売戦力だったのだろう。だが、ここ数年でそんな方針に変化が見られたのだ。
顔出しはAimerとしての盤石な基盤が構築されたことを意味しているのでは
顔出しは基本ライブ会場でのみ、なんて活動方針であったAimerなのだが、2016年には民放音楽番組でタモさんと共演。
その後の2017年12月には、同年8月に開催した記念すべき武道館ライブ「Aimer Live in 武道館 "blanc et noir"」を収録したライブ作品をリリース。
謎に包まれていたAimerというシンガーの姿が遂にお披露目されたのである。だが、なんだろう、この違和感。
友人に紹介された女性と初めて会ったような感覚だ。いや、決してブスとかではなく、なんか想像していたイメージとはなんか違うかなって感じ・・・?
音楽に人生を捧げ、自らの喉に降りかかるリスクすら恐れない純粋さは、危うさでもある。それゆえ儚くも孤高の存在を連想させられていたのだが、それは筆者の思い込みだったようだ。
押せば倒れてしまうような虚弱さは無く、見るからに健康体。クールな印象とは真逆の人懐っこい雰囲気。全てのイメージは筆者の幻想でしか無かったのだ。
しかしながらアーティストの作風とイメージはリンクすることは鉄則。デビュー以降、数年に渡って作り上げたAimerというアーティストのイメージをわざわざ崩してしまっていいのだろうか?
そんな方向性に進んだ理由としては、やはりAimerというシンガーに今さら小手先のイメージ戦略の必要性がなくなったことを意味しているのだ。
顔出しでイメージが崩れてしまう危険性よりも、Aimerというシンガーを前面に押し出すだけの価値があるという事である。それだけAimerの実力と実績が評価されたってことですよね。素直に喜ばしいことです。